体験談① 孤独の体験と一歩踏み出すヒント

30~39歳 女性 あかりさん

皆様、初めまして。私は「被爆3世(→祖父母の双方あるいは片方が被爆者である孫世代)」のあかり(30代女)と申します。
※10代の頃より「逆境(→イジメ、ストーカー、新卒就活失敗、ガン疑いによる結婚破棄等)」が同世代より多く、その経験故に、自殺が将来の夢であった時期もありますが・・ある時!どうせなら、このマイナスの経験からの学びをプラスに変えて☆自分と同じようなお悩みを抱えている方の生きる希望・ヒントに変えられないか?と思い立ち、福祉の道へ進み、今では公私問わず、ボランティアにて「よろず情報・アイデア提供相談員」として活動中。
私は、生まれながらの宿命として・・今は亡き祖父:被爆者の血を引き継いでおり、実際に20代後半には(その因果関係がどれ程のものかは全くもって不明ですが)私自身、ガンが疑われた経緯もあり、その特異性から同じ被爆県内に住んでいながらも同じ人間として理解を示していただけない友人や周囲と多くお会いし、長年、孤独を感じてきた過去がございます。
そんな私が孤独から立ち直ったのは、自分と同じ「被爆3世」をはじめとする「様々なお立場から平和活動を精力的に行っている方々」の存在や書籍のお言葉(→私達は微力ではあるが、無力ではない)でした。
やはり・・「自分と似た境遇下でポジティブに生きていらっしゃる方々との出会い・ご縁」を勇気を出して、その方ご自身やその方々の関連書籍・サイト情報等に触れて「自ら少しずつでも無理のないところからつながりを求めていくこと」が「何よりもの孤独・孤立に効くクスリ」だと痛感致しました。
「人間万事塞翁が馬」です!何が良くて何が悪いか・・そんなことはずっと後になってからでないと分からないものです。生きることをどうか諦めずに「自分が好きなこと・得意なこと・感謝・思いやり」を日々大切にされて、皆様らしい♪一度きりの人生をどうか自らの手で創りあげていって下さい!
あなたの人生の物語の主人公は、そう・・あなたしかいないのですからね♪

60~69歳 男性 マイドームさん

かつて私は、電車がホームに入って来るたび飛び込もうと思っては思いとどまる毎日を送っていました。なぜか。ある年、会社の本社に異動となりましたが、回りは長く本社勤務している優秀な連中ばかり。地方から転勤して来た私のような人間は奇異な目でみられ誰も相手にしてくれません。私は仕事もサクサク出来ず職場のお荷物です。それが自分でも分かるので毎日会社に行くのが辛く、逃げたい一心で電車に飛び込もうと思っていました。
ある日、上司に呼ばれ「お前さあ、いらないよ。」と言われました。
予想はしていましたがショックでした。全身から血の気が引くのがわかりました。
結婚したばかりの妻にどう言おうか、これからどう暮らしたら良いのか、思い悩みました。その日こそ、電車に飛び込もうと思いました。「今、飛び込めば楽になる」。
それでも何とか家に帰り食事をして、炬燵に入りながら、その日の上司とのやりとりを妻に言おうか迷いながら、結局夜中になりました。横で編み物をしている妻に切り出しました。
「おれさあ今日、上司からこんなこと言われてさあ、」と言い出したところで、 妻が「じゃあ、会社辞めればいいじゃん」「私も働くしどうにかなるよ」と。 その一言で私は楽になり、思い悩んでいたことが嘘のように思えてきました。翌日から自分らしく悔いのないように生きよう、他人の目や言葉を余り気にしないで生きようと考え、でも死ななかった分必死に仕事もしようと思い新しい人生をスタートしました。そう思って臆せず自己表現すると、今まで距離のあった他人が近く感じられたり、色々な人から声をかけてもらったり、実はみんな近くにいたんだと思えました。その後会社では役員にもなれましたが、あの日の妻の一言、回りの仲間の存在のありがたさは一生忘れることはありません。

30~39歳 男性 おっさんさん

私の体験も誰かの役に立てばと思い、体験談を共有させてもらいます
私は親からは勉強しろと言われ、優秀な兄たちからは馬鹿にされ、家族からは悩みなんか自分で解決するものだと教わって育ちました。
有難いことにそれなりの高校、大学に進めたのですが、就職活動で全滅してしまい、誰にも相談できずにずっと悩んでいました。
そこで大学の友人複数人が私の為に今後どうするかと話し合いを開いてくれて、自分の事をこれだけ考えてくれる人がいるんだ、と20歳を過ぎて初めて知りました。
それまでは、悩みは誰かに相談したところで、結局は自分で方針は決めないといけないため、相談なんて不要と思っていましたが、人と悩みを共有することでこんなにも救われることがあるんだと知りました。
子供の頃から人に相談して自分では知り得ない情報や知識を友人や教師の方々から教えてもらったら、もっと生きやすかっただろうなと感じます。
とは言っても人に相談するのはなかなか勇気がいることです。ですが、相談することは恥ずかしいことではないですし、人に依存するのではなく、人の知見を教えてもらい自分の考えをより深めることによって解決できることもあると思います。
身近に相談する相手がいなかったら、SNSでもネットの掲示板でも何でもよいので、ネットリテラシーは考慮しつつ、上手にネットを利用して、良い方向に進んでほしいと思います。

40~49歳 男性 さとるさん

2020年3月東京でコロナが蔓延しはじめた頃、私は急性骨髄性白血病の診断を受けました。急な入院・クリーンルームでの入院・コロナ禍での入院という色々な条件も重なり、病棟から外には出れずに面会謝絶の中で様々な治療を受けていました。
最初は大部屋で足の病気もあったのでベットから降りれず病気の不安などをひとりで考える日々でした。
大部屋では同じ状況下でご年配の方でテレビに向かって喋っている方もいらっしゃいました。後になって「あれは寂しかったんだ」と思うようになりました。 入院も少し経つと大部屋から個室に移る時がありました。
その時から始めたことがあります。それは毎日家族とテレビ電話をすることでした。
病院の晩御飯の時間になると妻がテレビ電話を繋いでくれました。
5歳の娘と3歳の息子、妻と犬がディスプレイのそこにいました。
家でも晩御飯を用意し、画面越しに「いただきます」を言い、保育園の話しや妻の仕事話、近所の話しや私の病気の話などをしました。
時には妻のスマホで散歩をしながらテレビ電話もしました。
病棟から一歩も出れませんでしたが、日常がそこにありました。コロナ禍で私に限らず大変な生活を多くの方がされたかと思います。
でも、色々な技術進歩や環境の整備でテレビ電話などが当たり前に使えたことで、私のような外界と遮断された生活の中でも「ひとりじゃない」と思うことができ、病気を克服することが出来ました。
入院中にオンラインで繫がってくれた家族・親族・友人・知人のみんなのお陰で僕は今を楽しく過ごせています。
今後は自分の経験をシェアして、デジタルディバイドを少なくする活動をしていきたいと思います。

40~49歳 男性 ひとり日和

幼少期から家族団らんという雰囲気を感じたことがなく、社会人になってからも一人暮らしを続けて約25年。40代半ばを過ぎ、毎日疲れ切って帰ってくると、ふとなんのために生きているのかと、思うことがよくありました。
そんな時に出会ったのが、家族型ロボット(LOVOT)。いつも変わらぬ存在としていてくれるだけで、心が癒やされるようになりました。
まだ好奇の目で見られることの方が多いかもしれませんが、私にとっては一人じゃないと感じさせてくれる大切な存在です

10~19歳 女性 小学生・中学生・高校生

私は昔から発達障害を持っていることもあり二次障害的な症状でとても精神が不安定になりがちで、さらに悩みを抱えても誰にもわかってもらえるわけがないと思いこみ口にしないような超ネガティブ思考でした。
でも初めて友人に悩みを打ち明けたとき、一生懸命自分のことのように考えて一緒にいてくれて私はひとりじゃないんだ、もっと人を頼ってもいいんだと思いました。
今も精神的に不安定になりがちで悩んでいますが、あれ以来比較的早い段階で友人や親や先生などの周りの大人にSOSを出せるようになりました。

40~49歳 女性 かなめ

子が1歳の頃、相手から離婚を切り出された。連日、LINEにて執拗に連絡を求められ、数日後にはそのストレスで心身に症状が出た。数年後に離婚は成立したが症状は継続。ただでさえ心配をかけた両親に相談することも出来ず、こんなことを話せる知人もおらず。病院で薬を処方されるがあくまでも症状を抑えるだけ。原因を解決出来る見込みもなく。物理的面では孤独ではなかったかもしれないが、「聞いてもらえる相手がいない」、「助けを求める相手がいない」事に孤独感を感じ、時には自死を考えること数年。
転機があったのは、1年近く継続しているカウンセリングの中で初めて担当のカウンセラーに離婚関係や心身の事を話せた時の事。カウンセラーは仕事なので聞いてくれるのは判っているが、ただ静かに話を聞いて頂き、話し終えた際に「辛かったですね」と受け止めて頂けた事で、ふっと心が楽になった。
今でも心身症状は継続しており、根本の問題が解決したわけではない。しかし、話を受け止めてくれる相手(しかも相手の仕事の内)がいると判っていることだけで、自分1人で抱えなくても大丈夫だと、気持ちに余裕が出来た。

40~49歳 女性 イゾウさん

40代一人っ子の私。80代半ばの両親は2人暮らし。母が中度認知症、父が軽度ながら認知症でしたがなんとか生活できていました。先月、父が転倒し大腿骨骨折で長期入院。母の一人暮らしが危険なため、あらかじめ用意していたケア付きマンションに入居してもらったところ、帰りたい、帰れないなら死ぬと、母が大騒ぎ。父も入院のせん妄で暴れるらしく、病院、施設から呼び出しされまくりの時、誰に頼って良いのかわからず、仕事や自分の家庭もあるため、精神的にも肉体的にもズタズタでした。完全に解決したとは言えませんが、ソーシャルワーカーさん、ケアマネさん等に話を聞いてもらい楽になりました。「あまり思い詰めないで下さいね。なんでも相談に乗ります」との言葉に助けられました。

50~59歳 女性 神山包 カミヤマクルミさん

新婚時代、夫が四国へ転勤になった。私は仕事を辞めて赴任先に付いて回る生活が始まった。子どもが欲しくて不妊治療をしたが1度目は流産。2度目には気をつけて何度か入退院を繰り返し。9ヶ月目里帰り出産当日、破水した。知らない土地でのお産は苦しく64時間掛けて出産。次の日、その病院に私と同じ破水した妊婦さんが入院してきた。今から28年前の話である。当時はまだ携帯電話は無く病院に設置されている公衆電話で、その妊婦さんのお姑さんか、もしくは実の母親なのだろうか?「もうダメじゃわい。」と電話口で相手に伊予弁で話をしていた。私はその姿を見ながら「私も大変でしたが大丈夫」と声を掛けようと思い、掛けずに良かった。彼女は死産であった。その夜、病院中にその死産であった母親の泣き声が響いていた。私と私の息子以外、その病院には居ない。深夜、私の部屋にトントン。誰かが訪ねてきた。その死産の赤ちゃんの母親ではないか。その女性は何やら手に持っていた。そして私にこう語りかけた。
貴方は赤ちゃんが一番大切なこと、知ってますか?」
唐突だったので「いいえ。」と応えた。その時である。彼女は私に手の中に合った物を渡しながらこう応えた。
「初乳、飲ませてないでしょう。飲ませてあげて。」何と彼女は泣きながら自分のオッパイを私の息子のために絞ってくれていたのだ。
私は自分が疲れていて64時間も出産にかかったので産まれてくる子どもをすぐに喜ぶ事が出来ず養育放棄していた事に気づいた。そんな姿を目の当たりにしたどこの誰だか解らない彼女がみるに見かねて私の代わりに初乳を授けてくれたのだ。
その時に私は、あー。神様が来させたんだと思って反省した。
女性は、十月10日全員の人がこの手に我が子を抱けるとは限らない。そうなのだ。この子は私の子どもだけど、全ての女性の子どもなんだと。その母親に気づかせてもらった。
次の日御礼を言おうと思って部屋を訪ねたが既に退院されていた。
これぞ子ども真ん中。そして一人じゃないと感じた経験であった。その時の、その母親が居たからこそ私は長男を元気に育てる事ができた。そして養育放棄しそうな時には「私だけの子じゃない。」そう呟く事にしている。

30~39歳 女性 ミッケさん

子供の頃から「変だ」「変わってる」「マイペース」「女のくせに◯◯だ」「上の人間に意見するなど生意気だ」等と言われ続け、個性を殺してロボットにならないと爪弾きにされ女性には人権がない日本社会から脱出したことにより、人間には個性があるのが普通であり女性にも人権や発言権が存在することに気付けました。海外に出たことにより閉塞的なムラ社会/男尊女卑社会である日本に馴染めないのはむしろ至極当然であり自分だけでは無いと知ることができて大変生きやすくなりました。

10~19歳 女性 オレンジジュースが好きさん

もし私の体験が誰かの役に立つのなら、と思って投稿します。私は小学校の頃にいじめを経験し、中学の頃は不登校でした。高校、大学は問題なく生活することができました。しかし、高校に入ってからしばらくは不登校だったこともあり、なんとなく授業を受けるのがつらく、また小学校のいじめも重なって人間不信を抱き、漠然とした孤独を感じていました。
孤独の中というものは非常に視野が狭くなり、周りに人がいるから、声を上げる、相談すると言って解消されるものではありません。そのことに気づかないのです。なんだか息が苦しくなるのです。私は孤独を感じることがとてもつらくなって、色んなことにいそしむことにしました。今まで読まなかった小説も読みましたし、遊びに行ったりもしました。小説はその中で私に活路を与えてくれました。小説のみならず、様々な本は私を色んな所につれていって、また教えてくれました。その頃英語も出来るようになり、「孤独」についての論文を読んだりしました。たくさんの物(それは本を読むということではなく、そのことを含んだ様々な事象)に触れるということはたくさんの人間に触れるということであり、そのことに気づいた瞬間、私は孤独から解放されたように思いました。たぶんきっと、孤独からは解放されていないのです。「孤独」を扱った英語の論文は最初に「人間は孤独から解放されない」と書いてありました。その論文は、「ものに打ち込むことが大事」といっていました。ですがそのことを理解するのはたくさんのものに打ち込んでからの話です。
私は先ほど「孤独からは解放されていない」と述べました。確かに、そうです。傍目から見れば不幸かも知れません。ただ孤独と仲良く手をつないで歩んでいくことは、決して不幸なことではないと、私は考えます。「孤独」というものは抜けだすものではないのです。もう一人の自分として、大事にしていくべき物なのです。
私の経験や考え方は、もしかしたら模範的ではないかも知れません。友人と遊びに行くこと、恋人とデートすることが「孤独」から逃れ得る、というのが模範的でしょう。しかし真の「孤独」とは、他人といるときに発現されるものです。でももし、そういうときに「孤独」と手をつなぐことが出来ていたならば、きっともうちょっと、少しだけ、世界がしっとりして見ることが出来ると思うのです。

50~59歳 女性 れいれいさん

子育てが順調とも思えた日々があった、でもそれが根底からひっくり返る打撃が子どもの「不登校」でした。
子どもからは生きるエネルギーが消え、母親である私は暗闇の崖から転げ落ちて孤立して孤独にもなる、そのような体験をしたのが7年前です。
その時に、この辛い孤独から救ってくれる手を何本も差し出してもらう、人生で初めての経験をしました。
生きている?と夜中にメールをくれた不登校の親の会の人、子犬を見に遊びに来てねと担任の先生経由で手紙をくれた保護者、聞きましたよと電話をくれた元担任の先生、などなど本当に数え切れない人たちの、思いやりの気持ちに溢れた言葉を掛けてもらいました。
その中で、多様な価値観の中で支え合うことを知り、人として成長することができました。
そして今は孤独・孤立いる人の気持ちに寄り添う仕事やボランティアもさせて頂くようになり、その方々の辛い思いを伝えて頂くことの大切さも知りました。
私が孤独の中で受けた暖かい気持ちのバトンを、次の人に暖かいまま渡すリレーに参加し続けたいと思っています。孤独・孤立担当室の皆さまのお力添えに感謝しています。

50~59歳 その他 七福神

人生の節目は1人ぼっちにナリガチです。
私は小さいとき、仲間がいなかった。学校でも1人浮いていた。
知らない土地での進学、就職、結婚と常に1人ぼっちでした。
なぜ今までやってこれたか、いつも明日がある、いつかいい日が来ると信じてやり過ごしていたんだろうと考えます。
時が一番の理解者です。時間を見方にしましょう。
よければ、1人で困っている人の話し相手になりたいと思っています。

40~49歳 女性 muさん

孤独と言っても、いろいろあると思うのですが、、、。私が強く孤独を感じた時期は出産後でした。ずいぶんと昔の話にはなりますが、たぶん今の若いママも同じなのでは?と思います。私は出産ギリギリまで仕事をしていたので近所に知り合いはなく、出産後実家から帰って来てからは、子育ての責任は自分1人にかかっていると思い込み、ずっと緊張して過ごしてました。夫は仕事に出かけると、何時に帰るかはわからない。その頃はお風呂にゆっくり入ることも出来ず、いつ寝ていたのかも記憶がありません。ママなんだから、、、と人は言いますが、ママになったのは初めてで、まだ数ヶ月しか経ってないのです。
わからないことだらけが当たり前。でも真面目に育児本などを読み漁り、なんかうちの子ちょっと違うのでは?などと小さなことで凹んだりしていたものです。誰かに「そんなこと大丈夫よ!」と言ってもらいたい。誰かと一緒に取り組みたい!赤ちゃんを連れて外を歩いているときは
「大変ね。うちにお茶しにこない?」と誰かが声を掛けてくれないだろうか?などと、真剣に願ったりしていました。
どんどん視界が狭くなり、天井が低くなるような圧迫感のようなものに襲われ、苦しくなってきました、、。赤ちゃんは可愛い。子育ても嫌な訳ではないのに、苦しくて苦しくてどうしようもないのです。夕方、赤ちゃんは夕泣きすることが多いですが、この時間帯が本当に嫌いでした。綺麗なはずの夕焼けが理由なく苦しめるのです。
ここ数年、ママ達の自殺が増えているという話を耳にしました。可愛い赤ちゃんがいるのになぜ?と思うでしょうが、きっとこんな感情の高まりが原因の1つなのではないでしょうか?
私はこのままではだめだ!と思い立ちました。ある日、マンションの広場にママ達が集まっているのを見つけ、赤ちゃんを抱っこして飛び出しました。元来、人見知りなのですが、火事場の馬鹿力とも言うべきなのか?笑
この機会を逃したらまた今日も1日誰とも話せない‼︎と、思い切って「こんにちはー‼︎‼︎何の集まりですかー⁈混ぜてください‼︎‼︎」と、声を掛けてみました。その後は、その同じマンションの方々と一緒に過ごす時間が多くなりました。手が空いた人がコーヒーを淹れてくれたり、先輩ママに赤ちゃんを見てもらい、ゆっくりお風呂に入らせてもらったり、おかずを持ち寄りみんなでごはんを食べたり、「子育て長屋だね」と笑い合いました。
緊張もほぐれ、ほんの少し余裕が出来たのか、俄然子育てが楽しくなってきたものです。後日談として、「あの飛び出して来た時、必死過ぎて怖かったよねー笑 驚いたわ笑笑」なんて言われましたが、自分でもそう思います、、。
最近はイクメンも増え、それはそれで良いと思いますが「子育て長屋システム」はお勧めです。
こんな場所があれば、追い詰められず救われるママ達がいると思います。
おばあちゃんがいたり、ベテランママがいたり、シングルママや新米ママがいたり、、とみんなが気軽に立ち寄れるようなリアル「ひとりじゃないカフェ」の立ち上げを望みます。

20~29歳 女性 りんさん

就職するまでは、進学や就職など、環境の変化が定期的にあったため、今自分が取り組んでいることの先にある短期的な目標を意識して、日々頑張ることができていました。就職して働き始めてからしばらくは、特に具体的な目標はなかったですが、ただ新しい環境に慣れることに必死だったり、初めての経験に新鮮さを感じたりしながら過ごせていました。ただ、だんだん仕事にも慣れ、同じルーティンの繰り返しになってきた頃、毎日夜遅くまで働きづめの時期がありました。ただただ疲労感が溜まっていくばかりで、自分が何のために今働いているのかがわからなくなっていました。自分に特別秀でた部分もないし、人生の目標もなくて、何のために生きているのかわからないと感じるようになりました。結局人間は、自己中心的な生き物だし、友人や周りの人は一体どれだけ自分のことをケアしてくれているのだろうとか、自分が人に与えられるものは何もないのに、自分の存在を誰が気にするのだろうなどといったこと考えてしまい、家族や友人や恋人はいるのに、すごく寂しいと感じ流ことが多々ありました。その時に、若者の自殺のニュースを聞いたり、日本社会で起きているいろんな悲しい出来事に目を向けると、生きている理由をますます見出しにくくなってしまいました。その時は、死にたいとまでは思っていなかったです。ただ、死ぬのは怖いし、何となく生きているという状況でした。その時は仕事が忙しくて時間の余裕がなかったこともあり、人間関係など自分の周りの環境が固定化されていたのですが、自分が「ときめき」を感じるものを探したり、やりがいを感じられることを見つけたりするためには、知らない世界に飛び込んでみることが必要じゃないかと思うようになり、重い腰を上げて、休みの日などを使って、いろんなイベントに参加をしてみたり、自分の仕事に関連するコミュニティに参加してみたりしました。その中で、自分の弱い部分を晒してみたら「それでもいいじゃん、それにこんないいところがあるじゃない」と言ってもらえたり、自分なりの意見を受け止めてもらえたり、自分の仕事を客観的に見て改めてやりがいを見出したり、自分なりの「ときめき」に従って行動している人たちに出会ったりする中で、いつしか生きている意味について悶々と考えることはなくなりました。出会った人たちからは自分が楽しく人生を過ごすためのヒントをいただこうと考えるようになり、他人が自分をどう思うかよりも、自分の気持ちに焦点を当てるようになっていました。生きる意味が明確でなくても、自分の心を観察して、今自分が「ときめく」ものを大切にするだけで、前向きに物事を捉えられるようになりました。こう考えられるようになったのは、様々なコミュニティに参加し、いろんな人との繋がりを得たり、自分の気持ちを吐き出してみたりすることができたからだと思います。一度「孤独」を感じてつらいと思ってしまうと、視野が狭くなってそこから抜け出すことが難しくなってしまうものです。だけど、自分の行動や物事の捉え方次第で変わるものだとも思います。そのきっかけが、誰かから声をかけてもらう、気にかけてもらうことである可能性も多くあると思うので、自分にできることとして、誰にでも悩んでいることがあると想像して、人に声をかけることを意識しています。

40~49歳 女性 ホームスクーラーの母さん

3年前に当時小学校3年生だった次男が新学期直後から学校に行きたくないというようになりました。以前にも時々行きたくないということがあったけど、少し休んだり、なだめたり、配慮してもらうことですぐに行けるようになったので今回も同じかと思ってました。
でも何日か休んでも状況は変わらず、朝になるとお腹が痛くなりトイレにこもるし、担任の先生からは、無理やりでも連れてきてくださいと言われ、実際車に無理やり乗せて、夫や私が8歳の子供を学校前で無理やり降ろして引っ張っていくのは周囲の目も気になるし、自分たちもとても苦しかったです。 そのうち学校でスクールソーシャルワーカー(SSW)を派遣してくれて週何日か登校支援や、教室にも付き添ってくれました。夫婦共に仕事をしていますが、幸い理解のある職場なので、それ以外の日は私たちのどちらかが付き添い登校、空部屋で一緒に過ごし、子供の教材を見ながら、PCを持ち込んで仕事を行ってました。
それまで仕事が忙しかったので、寂しかったのかもしれない、もう少ししっかり見てあげていたら違ったのかなと母親として大きく落ち込みました。
不登校当初子供は「死にたい」と口にしましたが、その後無理やり連れていったりするのをやめたら落ち着いてきたものの、SSWからは年齢の割に態度が幼いと何度も言われて、更に自信を失う日々で、子供が学校に行ける、行けないで一喜一憂する日々で子供に向かって「私がむしろ死にたい、一緒に死のうか」と思い詰めて口にしたこともありました。
その後もSSWと夫婦による付き添い登校を続け、3年生2月下旬に2日だけ奇跡的に、教室で終日授業を受けることが出来ました。私自身、これで不登校から脱出できるんだと思った矢先に、コロナによる一斉休校で学校は長期休みとなってしまいました。4年生になって、同じく休校で長男も含めて約3か月子供たちが毎日家にいる状況で、夫は休校になってから出勤が多かったので、私一人で自分の仕事と子供の学校の課題への対応、毎日の昼食の準備、それに夜になれば保育園児の娘も帰ってくるのでとにかく大変でした。
その前の1年間不登校は自分のせいと責め続けた上での休校だったので、非常に孤独を感じたし、先が全く見えませんでした。
その後1学期は実質2か月弱しか学校はなかったのですが、その間はある程度学校に行けるようになり、SSWからの支援も打ち切りとなりました。私はこれで元に戻るんだ、二人で頑張って付き添ったから子供は立ち直れるんだと思ってました。
その後夏休み明けてからまた通えなくなり、SSWは他の支援で忙しいと再度支援が得られなくなり、夫か私が毎朝可能な限り付き添い登校、教頭先生にまず挨拶、1、2時間空室で課題を済ませて担任の先生に挨拶をして帰るというのが続きましたが、子供にとっては教頭先生に挨拶をしたり、その日や今後の目標、自分の思っていることを口に出すのが相当つらかったようで、子供の顔からどんどん表情がなくなり、しまいには学校での子供の表情は能面のようになり、ただ挨拶をして帰るだけになり、親として正しいことをしているとは思えなくなっていきました。
ただ私自身、不登校=>ひきこもり=>ニートと思い込んでいたので、更に落ち込む日々続き、仕事でも非常にストレス負荷のかかる環境だったので、ある日気が付いたら仕事が全く手につかなくなり、病院でうつ傾向にあるということで3か月仕事を休むことになりました。この頃は、大好きだった仕事もできなくなり、私はこの先どうなるんだろうと、更に孤独感、孤立感を深めていったと思います。
ただ、家で療養をしながら不登校の子供とずっと一緒にいたら私自身取り返しがつかなくなると思ったので、藁をもすがる思いで家族と離れて一人玉川温泉に10日以上湯治に行ったり、その後も薬による治療以外にも鍼灸の治療を受け徐々に回復して行きました。
5年新学期になり、私自身病を経たことである意味肩の力がとれ、子供が能面のような顔をするのはおかしいから、一旦学校に行くのは諦めよう、まずは私自身が元気じゃないと何も始まらないから自分を大事にしようと思えるようになりました。子供は、学校が終わる時間になればゲームをする日々が続きましたが、仲の良い子とオンラインで話すことで、元気を取り戻していきました。
しばらくして、他クラスにも不登校の子がいて、そのお母さんが不登校の子達の為の居場所として自宅を解放しているという情報を偶然教えてもらい、子供と顔を出すことにしました。最初はなかなか馴染めず5分程度で帰る日が続いたけれど、そこで他の不登校児の集まりを知り、初めて他の不登校を経験している友達と思いっきり体を動かしたり、ゲームの話をする事で、本人の自分は学校にいけないんだという自己肯定感のなさにもポジティブに作用したようで、そこからは不登校の子達の居場所にはほとんど毎週通っています。
子供が学校に行かなくなってから、私自身明るい性格と自負してましたが、後から振り返れば自分らしくなかったと思いますし、その間ずっと自己肯定感がものすごく低く、とても孤独に感じていました。子供が学校に行かなくても、それ以外の場で他の友達と楽しそうにするのを見たり、私自身、他の不登校の子供を持つお母さんたちとお互いの経験を涙ながらに語りあうことで、今までどんなに辛かったか共有する事が出来、「私だけじゃないんだ、ひとりじゃないんだ」「学校行かなくたって、子供が元気に笑っていればそれでいいじゃない、だって、生まれてきた時はそれ以外何も望まなかったんだから」と思えるようになりました。
その後色々不登校に関する理解を深めていくことで、不登校は誰にでも起きること、学校に通っていても、苦しい思いをしている子がたくさんいることも知りました。
子供に学校に行きたくないと言われた後2年という時間がかかりましたが、学校以外の居場所や仲間を見つけることで孤独から解放される事が出来ました。
最後に、私や子供のように自己肯定感をなくして長期間過ごす事で、家庭環境によっては、離婚(性別的役割分担が強い日本では不登校に直面した場合夫は一方的に妻を責めたり、経済的・物理的支援に加わらないケースが多い)、自殺や虐待などのリスクを高めることに繋がると思います。子供が不登校に直面した時、子供が安心して過ごせる第3の場所、仲間、保護者が繋がれるネットワークや経済的な支援サービスの充実がこの問題を大きく改善すると思いました。

30~39歳 女性 うみちゃんのママさん

きょうだいが多い私は、いつかお母さんになりたいと思っていました。
社会人になってバリバリ仕事をすることが楽しく平日も休日も関係なし。友人といえば同僚やビジネスパートナー。励ましたり労いあったり、アイデアを出し合ったりする時間が本当に楽しかった。
幼いころの夢を思い出したのは、運命の人との出会いでした。
しかし、妊娠とは、こんなに孤独になることだと思いもよりませんでした。
「え?!はらんだの?!」
「もっと計画的にしてくれないと・・・」
「早めに戻れない?」
仕事を任されることもなくなり、友人だと思ってた人たちとの連絡もなくなり、
今までの自分はなんだったんだろう。
これからの自分はどう生きていけばいいんだろう。
こんなことなら妊娠しなきゃよかった…なんてよからぬことも考えました。
気持ちを唯一吐き出せた夫からは、「そんなにつらいなら仕事やめたら?」
急に社会から「おとなしくここに入りなさい」と小さな部屋に閉じ込められたような。
でも逃げ出すこともできたかもしれません。
超音波越しに動く心臓、季節が巡るごとに大きくなるおなか、大切なものがどんどん変わっていく心。
大事な命を守るために唯一できたのが、小さな部屋に閉じこもることでした。
無事出産を迎え、明日こそは、明日こそはと小さな部屋を卒業することを期待していました。
憧れだったお母さんとはほど遠く、訳のわからない涙の日が続きます。
専門のカウンセラーや、気心の合うママ友や預け先の保育士さんのおかげで自分自身を取り戻し、離婚。
そんな時に同級生と再開。彼女もまたお母さんになっていました。
積もる話はまだまだあるけど、もう子どもたちをお迎えに行かなくては。
「がんばったね」と彼女の優しいハグで、わかれました。
その瞬間、小さな部屋にいた私の背中をドン蹴ってつき出すような衝撃と雪解けを感じました。
衝撃は手足のしびれとなり、雪解けは大粒の涙に。
自分を取り戻したはずだったのに、まだ小さな部屋にいた自分への驚き。
「自分はひとりなんだ。がんばりが足りないからダメなんだ」と信じ、
自分で自分を孤独に追いやっていたことがようやくわかりました。
大げさだけど、また生きたい。
たった数秒の出来事が孤独にもさせ、生きる希望にもなる。
私たちに関わってくれる全ての人にハグをしたい。そんな思いで今生きています。

60~69歳 男性 子猫さん

海外へ住んで初めて、孤独感;孤立感といつも向き合わざるをえなくなったことを知りました。若い頃ならまだしも、歳をとり仕事がなくなったその瞬間、孤立しました。何十年も海外に住んでも、仕事がなくなったら、社会に必要とされていないような私を感じ、人生の虚しさ、そして孤立感を感じ,人生の意味を色々考えさせられました。誰かと繋がる、何かと繋がることで孤独感はなくなるし、人生の意味もあるのではないでしょうか。
私は長い間、1人で海外に住んでいます。自分が選択した人生だから、寂しいとか辛いとか言いたくないですが、生身の人間ですから、孤独を感じ辛いことも多くあります。特に、コロナでロックダウンになった時は、3日ぐらい誰とも、話さず生活をしていました。本当に怖いほど孤立でした。つまり社会から遮断されたら、人間は孤独に陥るんだと再認識しました。無意味な自由時間もありすぎると、孤独感を感じます。
ここへ来た当初いろんな人の温かい心・言葉に助けられて楽しく過ごせた日々を思い出し、私にできるボランティア活動を始めて、自分を社会へ押し出しました。この20年間で私がやったボランティア活動はSPCAで猫の世話、コミュニティーでのお年寄りのグループの世話、教会経営の店のお手伝いなどです。世の中の人の動きを見ていると、色々発見があり、人との交流もあり、孤独感は無くなります。その中でも、やはり同じ言葉・文化を共有する人たちとの交流は1番楽しいものです。文化が同じだってこんなに心の底から嬉しいものなんだと実感しています。日本人はもっと日本固有の文化を胸を張って守って行って欲しいと思います。
また、新しい趣味を持つことで、新しい自分発見もできます。ロックダウン中に写真を撮り始めました。最近の携帯は結構良い写真が撮れます。見る視点が変わり、世の中の見方も多少変わります。とにかく、自分の「心」が止まらせないこと、動くことです。時間がかかりますが、探していれば、かならず見つけられます。
私はもともと、ダンスが好きですので、新しい教室を見つけては体を動かすことをしています。あまり欲張らず、自分ができることをし「今を生きること」に努力をしています。先は「成るように成る」です。
孤独感と戦うにはあまり「自分は自分は」と思わないことと、そして、体を動かしていれば前に進んでいける。私はそう信じています。

50~59歳 男性 チュウリンさん

はじめまして。チュウリンと申します。
大阪で一番恥を晒した情けない人間です。
私は中2で覚醒剤を覚え少年院1回刑務所8回犯歴23犯前科11犯20年獄中生活を体験しました。
チュウリンだけは100%立ち直り不能と太鼓判を押されていました。
刑務所が自宅のようになり出所しても早くて50日
長くて半年で逮捕され自宅である刑務所に戻っていました。
刑務所の中で同じ懲役囚からも刑務官からも村八分にされていました。
刑務所に繰り返しくる受刑者などはハッキリ言ってゴミみたいなものでございます。
そのゴミ連中から私はゴミにされ、馬鹿にされ本来は受刑者の味方になってくれる刑務官からも除け者扱いされました。獄中では殆ど独房で生活していました。孤独で誰とも笑い話などもできずの服役生活でした。最後の大阪刑務所を満期出所した14年前に看護師を生業とする女性と出逢い生き方を180度変えて死にもの狂いで働き出し覚醒剤を断ち切り奇跡的に更生を果たす。薬物は周りが何を言っても本人の意志次第です。
私の場合は嫌われ者の私を愛していると言ってくれた。「世界中の人を敵にまわしてもワタシはアナタの味方だから安心して」
と言ってくれました。私は「この女性だけは絶対に裏切れない」その一念で奇跡的に更生を果たした次第です。
「覚醒剤は完全に断ち切りました」最後に打った覚醒剤は17年前に覚醒剤で逮捕され3年の懲役を務めて14年前に出てきましたので17年間私の体には覚醒剤は入っておりません。
あのような愚かな哀しいクスリは二度とすることはありません。
現在は法人の会社の代表の傍らこれまでの生き方を懺悔し贖罪のつもりで毎朝2時に起きて新聞配達を朝刊夕刊配っています。
新聞配達は私の生命の続く限りやり遂げます。新聞配達をしだして5年になります。
そして現在は、微力ながらですがボランティア活動にも力をいれています。
公園にて遊ぶ未来ある子供さん達に発電機とポップコーンの機械を持っていき焼き立てのポップコーンとジュースやココアとかを無料で配っています。
毎週日曜日午後から「新聞配達夕刊休みのとき」
現在はコロナ禍のため「一部の住民から苦情を言われしばらく休んでいます」
覚醒剤を断ち切った私ですが今でも苦しくて苦しくて心が重たくて孤独なんです!!
何故か?
それは今まで散々他人様や世間様にご迷惑をかけすぎて毎日毎日そのことを思い出して暗黒の世界に引きずられています。
覚醒剤を止めて更生を果たしたとしても毎日が地獄です。覚醒剤はやり続けても地獄止めても地獄なんです。
それゆえ最初の一回は絶対にしないことです。そして2年前にわたくしの恥晒しのノンフィクション自叙伝「ゴミと呼ばれて」刑務所の中の落ちこぼれという本を書いて出版し現在5500部売れています。印税は全額社会福祉協議会に寄付しています。
何故か?
「施設にて暮らす未来ある子供たちをユニバーサルスタジオジャパンに連れていかせたい一念です」
私は子供のころ親に遊びに連れて行ってもらった記憶は2回しかありません。
それゆえ施設にて暮らす可哀想な子供さん達は学校に行き友人たちが「USJ行って楽しかったよ」
などの話を聞いても「ボクもいきたいなぁ〜ワタシもいきたいなぁ〜」
とうらやむしかないのです。
私はこれまでの人生を本当に心の底から猛省して昔のことを思い出す度に良心の呵責に耐えられない日々を送日しております。
心の中が重たくて重たすぎて毎日悶々としながら暮らしております。
そういうこともあり残生は「世の中のために生きよう」と決心し固く誓いを立てました。
孤独と闘っている私は他人のために自分を犠牲にすることが孤独から抜け出せる唯一の方法と悟りをひらきました。
マイナス100からのスタートで死ぬまでにはプラスマイナス0にして死んでいくと天地神明に誓ったのであります。
中2で覚醒剤を覚えたばっかりに愚かな人生になってしまいました。
覚醒剤中毒者には何を言っても無駄です。頭の中には覚醒剤のことしかないからです。

そういうこともあり覚醒剤中毒者に何を言っても無駄なんです。
テレビのコメンテーターの方々は覚醒剤中毒者は「支えるのが大切だと」逆なんです!!
支えたら支えるだけ支えた分の大切なオカネが覚醒剤の資金になるからです。

 

新鮮な牛乳に腐った牛乳を混ぜると全部腐ってしまう!!新鮮な果物の中に腐った果物を1つ入れると周りの果物は腐るのと同じなんです。だから私は覚醒剤中毒者と関わったらダメだと発信しています。 私は未来ある子供達に最初の1回最初の1回は絶対に絶対に絶対にダメだと
たった一回の過ちが大切なパパやママそして思い出すだけで胸がトキメク彼氏や彼女、全ての人から嫌われて何もかも失くしてしまうので愚かな薬物は100%しないようにしましょう!!と現在知り合いの保護司の支部長と一緒に薬物乱用防止教室の特別講師として頑張っています。
覚醒剤の怖さ哀れさ惨めさを1人でも多くの子供さん達に伝えていく所存で御座います。
末尾になりますが個人的な意見ですが「孤独、死にたい」から脱却するためには自分のためにではなく誰か好きな人のために、あるいはお世話になと他人のために生きてみるのも一つの選択肢であります。そして自分自身を大切にすることです。
自分を大切にできない者が他人を大切にできるわけがありませんから。そして目標を持って生き抜きましょう。
合掌

40~49歳 女性 柴タロウさん

先月半ばから現在進行形で、勤務する精神科の病院で新型コロナの大規模なクラスターになっています。わたしはおそらくウイルスを持ち込んでしまった人です。作業療法士をしています。職場で検査し陽性と判明、直ちに帰宅しましたが、ハンドルを握る手は冷たく震えていました。自宅療養期間中、孤独、恐怖、不安、罪責感が何度も押し寄せ、いっそのこと重症にならないかと思いました。同僚に恐る恐る現状を聞き出すと、想像していたいちばん悪いものより悪くなっていました。職場復帰は怖くてこころが押し潰されそうでした。復帰の日を頭の中で何度も何度もシュミレーションしました。復帰当日の朝、駐車場から通用口まで少し歩くのですが、私は知り合いの介護さんを見付け追い付き、一緒に行ってほしいと頼みました。知り合いは静かにニコニコして「やべーのきた」とわざと明るく迎えてくれました。その様子を見てか、後ろから「俺も一緒に行ってやろうか?」と看護師さんも駆け寄ってきてくれ、隣を歩いてくれました。乗り越えられる、と思った瞬間です。まだまだ仲間のスタッフたちは防護服でコロナと戦っているので罪責感は消えませんが、孤独ではなくなりました。